013びくにはし雪中

「びくにはし雪中」

 (安政五年(1858)十月 冬の部) 

   

手前から橋を渡って奥へと続く雪道は、道幅こそまったく変わったが、現在の外堀通り そのものである。

北の鍛冶橋方向から南の数寄屋橋方向をのぞんでおり、橋は比丘尼橋。 

絵の右手に見える青い堀を埋め立てて高速道路ができ、石垣は鉄道線路に化した(正確に は、石垣は堀の右手に描かれていなげればならない)。   

右手の「○やき十三里」は、「栗より(九里、四里)うまい十三里の洒落」とどの解説 本にも書いてある。

逆にどの解説本にも書かれていないが、13里は江戸から薩摩芋の名産 地川越までの距離、したがって13里=焼き芋、といわれている。   

左手の「山くじら」は獣肉を食べさせた「尾張屋」という店の由。「

この店は牛鳥西洋料 理とバーの営業で昭和初めまで営業していた」(宮尾)、「石丼研堂によれば、尾張屋は大正 8年(1919)にはまだ同じ場所で商売をしていた」(スミス)という。   

天秤で箱をかついで橋に向かうのは「おでん屋であろうか。

田楽と煮込みおでんととも に燗酒も売って歩いていた」(人文社)。   

橋の先に見える火の見櫓については、解説書によって場所が若干相違する。

「正面の火の 見は、有楽町河岸のいま映画館がある辺にあった」(宮尾)、「火の見の見える辺り数寄屋橋 御門」(暮しの手帖社、1993)。地図をながめると、後者が正しそうだ。   

さて難問。この絵は、①広重自身の作品か否か、②名作か否か。   

ヘンリー・スミスは「この絵には品格がない。将来の二代広重、当時の重宣の絵と思われる所以 である。

様式的にみても、これは明らかに広重以外の人の手になる」と断定する。

それで も、二代目が描いたのなら、もっと初代そっくりの手法で描いたはずである。

現に、二世 広重画とある「赤坂桐畑雨中夕けい」を見ると、二代目はそれなりの技術がある絵描きで ある。

むしろ初代広童本人が描いたからこそ、こんな別様式の絵が描けたのではないか、 とも思われる。   

高橋誠一郎も二代目の作とするが、絵の評価はまったく異なる。

いわく「(広重死後の改 め印からみて)この作品も二世広重の作品といわれている。

しかし作品はすばらしく、こ の画集の秀作に数えられている」とする。


「東京シティガイド江戸百景グループ」による

浮世絵

江戸時代に成立した絵画のジャンルである「浮世絵」を紹介してまいります。

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