022市ヶ谷八幡

「市ヶ谷八幡」 

(安政五年(1858)十月 春の部)


広重が亡くなった翌月の安政5年(1858)10月の改印がある。   市ヶ谷の名称の由来については、昔ここが市谷孫四郎なる者の領地であったからとか、 またここに市が立っていて品物が売買され、それを市買と書いたからとか言われている。 

市ヶ谷は江戸城西の市ヶ谷御門を出て外堀を渡った地域一帯をいい、武家屋敷町だった。  

絵の手前に小さく三角形に見えるのは、市ヶ谷御門を出たところに架かった橋である。 

橋を渡ると左に町屋が並んでいて、その町屋の間から道を北へ入ると市ヶ谷八幡へ登る石 段があり、画中に描かれている。

霞の上に八幡宮の赤が目をひく。

石段を登り詰める手前 の左側は「茶の木稲荷」である。   

市ヶ谷八幡本殿の大きさが、下のお堀端の町屋と較べて大きすぎるという見方に対し、 ヘンリー・スミス氏は「赤と黄で華麗に縁どられたすやり霞が、神社の威容と距離感を出 すことに成功している」と肯定的に捉えている。   

この絵は、桜が満開時の風景を示している。

境内には花見客用の桟敷が設げられ、軒か ら赤い提灯を幾つもぶら下げて花見の雰囲気を盛り上げている。岡の麓の通りには多くの 人出が見られ、その中には通りに設げられた葭簀(ヨシズ)屋根の茶店で休んでいる人もい る。

また通りに面した水茶屋では板戸を取り払って、屋内に縁台を置き、客に開放してい る。水茶屋では通常美人をおき、客を招き入れて茶を飲ますことを商売にしていた。   

左奥の火の見櫓のある広大な敷地には、甲州口防備のために徳川御三家の尾張藩62万 石の上屋敷(現・防衛省)が置かれた。

八幡宮境内の境界石に「陸軍省」の文字も残る。  

門前は、市ヶ谷八幡町で、水茶屋が軒を連ね、芝居小屋や楊弓場もあり、江戸有数の歓 楽街の一つだった。手前が田町四丁目で、道は二又になっている。

左側、お堀端の道を行 くと程なく四谷御門であり、右の道は新宿に通じる道である。   

この絵は「第12景 上野山した」「第114景 びくにはし雪中」とともに広重の死の 翌月、安政五年(1858)十月の「改め印」が押された3枚のうち1枚である。

3枚につい てスミス氏も「この点だけで初代広重のものではないとするには根拠が弱い」としている が、描法や落款の書体などから二代広重説を唱える研究者もいる。

(「広重名所江戸百景」 ヘンリー・スミス、「第12景 上野山した」の解説が詳しい。) 


「東京シティガイド江戸百景グループ」による

浮世絵

江戸時代に成立した絵画のジャンルである「浮世絵」を紹介してまいります。

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