2017.08.31 00:16022市ヶ谷八幡「市ヶ谷八幡」 (安政五年(1858)十月 春の部)広重が亡くなった翌月の安政5年(1858)10月の改印がある。 市ヶ谷の名称の由来については、昔ここが市谷孫四郎なる者の領地であったからとか、 またここに市が立っていて品物が売買され、それを市買と書いたからとか言わ...
2017.08.29 23:59021紀の国坂赤坂溜池遠景「紀の国坂赤坂溜池遠景」 (安政四年(1857)九月 秋の部) 紀伊国坂をのぼる途中で、ぐるりと坂下方向を振り返った場所からの絵である。 左側には御堀(現・弁慶堀)がある。その右側は、当時は紀州(紀伊国)徳川家 55万5,000石の中...
2017.08.29 23:56020赤坂桐畑「赤坂桐畑」 (安政三年(1856)四月 夏の部) 手前に桐の木を2本大きく配した。桐の葉と花柄も丹念に描いている。 広い水面は溜池である。水面には蓮の痕跡が拡がっている。 溜池の対岸に見えるのは日枝神社の別当寺で切絵図...
2017.08.29 23:55019赤坂桐畑雨中夕けい「赤坂桐畑雨中夕けい」 (安政六年(1859)六月) 名所江戸百景の中でただ1景だけ、二代広重の作品であることが明示され、落款に 「二世廣重畫」とある。このため、二代を襲名した披露の意味もある作品との見方がある。 このほかに、「市ケ谷八幡」「上野山し...
2017.08.29 05:44018虎の門外あふひ坂「虎の門外あふひ坂」 (安政四年(1857)十一月 冬の部) 赤坂御門から日枝神社の下を巡り、虎ノ門の近くまで細長くのびていた溜池の水が、 「赤坂のドンドン」といわれた堰から流れ落ちている。この堰から外湊に沿って 虎ノ門方向に下る坂を葵坂といった...
2017.08.29 05:42017霞かせき「霞かせき」 (安政四年(1857)一月 春の部) めでたい新年の光景である。門松、凧場げ、通行人。水平線の赤のぼかしも効果的。 今と同じ「霞が関坂」の坂上から、東の海側を望む絵である。現在はビルが林立し、海 は見えない。 遠く町屋の中にとび...
2017.08.29 05:39016糀町一丁目山王祭ねり込「糀町一丁目山王祭ねり込」 (安政三年(1856)七月 夏の部) 絵は半蔵門の南側から、桜田堀越しに半蔵門を眺めたものである。当時の風景がそのま ま残っている。絵は山王祭の山車(ダシ)の行列をえがく。 一番手は南伝馬町(現・中央区京...
2017.08.26 04:04015外桜田弁慶堀糀町「外桜田弁慶堀糀町」 (安政三年(1856)五月 夏の部)桜田門(外桜田門)あたりから桜田堀越しに、西側、国会議事堂方向をながめた絵であ る。画題にある「弁慶堀」は、現在の桜田堀であり、赤坂見附の弁慶堀ではない。 絵の左手の赤い門と白い壁は近江彦根藩井伊家...
2017.08.26 04:02014山下町日比谷外さくら田「山下町日比谷外さくら田」 (安政四年(1858.1)十二月 春の部) 泰明小学校正門左手にあるガード付近から日比谷方向をながめた絵である。絵の左手に 山下御門があるはずだが、描かれていないので、広重は山下御門(=ガード下)をほんの 少し右側に寄...
2017.08.26 04:00013びくにはし雪中「びくにはし雪中」 (安政五年(1858)十月 冬の部) 手前から橋を渡って奥へと続く雪道は、道幅こそまったく変わったが、現在の外堀通り そのものである。北の鍛冶橋方向から南の数寄屋橋方向をのぞんでおり、橋は比丘尼橋。 絵の...
2017.08.24 22:57012京橋竹がし「京橋竹がし」 (安政四年(1858.1)十二月 秋の部) 手前が京橋。もちろん擬宝珠がつく。西から下流(東)を望んだ構図で、左手の竹河岸 にはびっしりと竹が並び立つ。誇張がすぎるが、「竪絵ではこうした構成でないと、竹河岸 が生きてこなかったのであろう」と宮尾...
2017.08.24 22:55011市中繁栄七夕祭「市中繁栄七夕祭」 (安政四年1857)七月 秋の部) 百景シリーズの中で、地名が特定されていない唯一の絵だが、七夕風景である。 七夕について、斎藤月岑(ゲッシン)「東都歳時記」(天保9年1838)七月六日の項に、「今朝 未明より、毎...